Well-being有識者インタビューVol.5

実感としての豊かさ(ウェルビーイング)を重視する動きが世界で加速している。シンガポールや日本の大学で心理学と公衆衛生学を学び、現在は米ニューヨーク大学で教鞭をとるアルデン・ライ氏はヘルスケア領域における組織科学の専門家。ウェルビーイングのハブ的な役割を担うGlobal Wellbeing Initiative(GWI)に参加するなど、積極的に活動を展開する。「それぞれが能力を十分に発揮でき、充実感を得られる仕事に就くことはウェルビーイングにつながる」と語るライ氏に、ウェルビーイングの世界の潮流や新指標GDW(国内総充実)への期待について語ってもらった。

写真:アルデン・ライ氏

アルデン・ライ 氏

米ニューヨーク大学 School of Global Public Health助教授、公益財団法人Well-being for Planet Earthエグゼクティブ・アドバイザー。ジョンズ・ホプキンス大学で博士号を取得後、政府、大学、バイオ医薬品メーカーでコンサルタント・研究員として従事。専門分野は医療従事者の職場エンゲージメント、組織科学、個人・社会のウェルビーイング。

職業の細分化が招く労働者の幸福度低下とは?

私の考えでは、人間にとって最も大事なことは「ヘルスケア」と「教育」であり、これらを充実させれば、幸福な人生を送ることができると思います。なぜなら、「ヘルスケア」と「教育」は潜在能力を発揮するカギになるもので、個人の能力を最大限発揮できることこそ、ウェルビーイングであると考えるからです。

しかし、現在一部の労働者は、仕事において充実感が得られにくくなっています。例えば、医療従事者の「燃え尽き症候群」は、世界中で問題になっています。多くの医療従事者たちは、お金を稼ぐことよりも、人の役に立つことをモチベーションにしています。しかし、彼らは患者と直接コミュニケーションを取りつつ、多くの知的な仕事を完璧にこなさなければならないという強いプレッシャーにさらされ続けています。そのため、疲れ果ててしまい、達成感を得られなくなっているのです。法律や会計、コンサルティングなど、他の分野においても似たような状況に陥っている人は多いでしょう。

中でも、米国の診療所で働く医療事務員の問題は深刻です。看護師やソーシャルワーカー、薬剤師など、病院内における役割の細分化が進んだことで、自分の存在価値に悩み、自律性を失っています。医療業界がより専門的になり、特定の職種の仕事の幅が狭まりつつあるのです。これは、様々な企業で働く事務職の人たちにも共通します。この状況を打破するためには、彼らが能力を十分に発揮でき、充実感を得られる仕事を増やすことが必要なのです。

医療の分野だけでなく、組織と従業員が相互に利益を得られる持続可能な労働を実現するためには「知識とスキルの活用」「知識の育成」「意思決定への関与」「人間関係」「目標設定」「所得」「価値のあることへの貢献」の7要素が重要です。これはノーベル経済学者のアマルティア・センの理論をベースにして、職業心理学の研究者が発表したものです。

世界的な幸福度研究組織 企業との連携も強化

私が関わっているGWIは、世界各地の研究者、政策当局、企業、国際機関の関係者が集まるコミュニティです。ウェルビーイングに関する調査業務を基本として、多様な文化を網羅できるウェルビーイング基準の模索・構築に努めています。

幸福度に関する研究を行う組織は世界各地にありますが、GWIが他の組織と違うのは「グローバルかつ包摂的である」という点です。研究の成果を学問の領域に留めず、その成果を広く知ってもらう活動をしたり、研究成果を実際の政策に反映し、影響力を持たせるための方法を提案したりしています。

また、様々な組織と関係性があり、データリサーチの知見のあるギャラップ社と強い協力関係があるのも強みの一つです。ギャラップ社は既に世界的なネットワークを持っているので、「包摂的に幸福度に関する研究をする」という目的を持つ我々にとっては唯一無二のパートナーです。

ウェルビーイングは非常に範囲の広い概念ですし、幸福の定義は個人によって異なるので、簡単に主観的幸福を定義することは不可能だと思います。しかし、だからといって主観的幸福についての議論は閉ざされるべきではありません。知見を共有し、それぞれの国や組織における理想的なあり方について議論することが大切です。そのために、GWIはウェルビーイングに関する知見を集め、それを普及させる場となっています。

GWIは現在まで、政策当局や国際機関との関係を主にしてきましたが、これからは企業との連携を密にしていきたいと思っています。企業の現場で必要なウェルビーイングのコンセプトや、その取り組み方、測定の仕方を考えていきます。また、その取り組みが社員にとってどのように役立つのかも大切です。

また、今後はOECD(経済協力開発機構)とのパートナーシップを強化し、政策立案に調査研究の成果を役立てたいと考えています。この連携により、それぞれの国のニーズを知ることもできます。OECDの加盟国は限られていますが、このステップで科学と政策を関連付けられることが証明されたら、さらに活動の範囲を広げていきたいと思っています。

日本独自の視点や取り組みで世界のウェルビーイングは加速する

現在、様々な場所で少しずつウェルビーイングの概念やその測定の重要性が認められてきていますが、それは最初の目標にすぎません。これから先は「その結果をどう活用するのか」そして「どうやってウェルビーイングへの取り組みに一貫性を持たせるのか」が重要になってくるでしょう。例えば、取り組みを政策に導入するためには、その結果が数値化でき、改善や悪化が客観的に分かるものでなければなりません。ですから、私たちは、ウェルビーイングの基準を多様化するのと同じくらい、様々な評価基準を統一することも重要だと考えています。

GDWが世界から必要とされている理由は、GDPに限界があるからです。経済学者がGDPの下落予想を発表すれば、社会全体が危機感を持ってその対策にあたるのと同じように、GDWが社会全体の議論や意思決定の役に立つことを期待しています。その時は、意思決定のプロセス自体が変化することでしょう。例えば、教育政策の見直しをするときは、学力の向上だけでなく、学生のウェルビーイングも重視されるようになるはずです。私が生まれ育ったシンガポールは、理数系の成績が重視される競争社会ですが、学生のウェルビーイングの概念が広まれば、異なる評価軸も出てくるでしょう。

また社会にGDWが浸透すれば、人々の共感力が高まります。「今期のGDWの値が低い」という報道を見た後に、友人からメンタルヘルスの悩みを打ち明けられたら、「社会の幸福度の低下が友人の精神状態にも影響を与えているんだ」と納得し、共感が生まれるかもしれません。そのような共感や実感を経験した人が多くなれば、ウェルビーイングを政策につなげることを広く受け入れてもらいやすくなります。

これはコロナ禍で起きた変化とも共通点があります。パンデミックによって人々が一様に孤独を感じたことで、孤独を表現したり、そのつらさを人と共有したりできる社会に変化したのです。

また、ウェルビーイングとよく似た概念である「メンタルヘルス」という言葉が、コロナ禍によってより広く使われるようになったことは、ウェルビーイング重視の世論がいま急速に広まっていることの一つの要因だと思います。生活様式が一変し、どこで仕事や勉強をするのか、誰と一緒に長い時間を過ごすのか、という人生の要素が変わらざるをえなくなったことで、人々は「自分にとってのウェルビーイングとはなんだろう」と考える機会を得たのです。パンデミックは過酷ですが、それによってウェルビーイングを見つめなおす人が増えたのは、不幸中の幸いだったと言えるでしょう。

ほかにも、BlackLivesMatterなどの社会的イベントや、昇進や家族の病気といった一個人のライフイベントでも、ウェルビーイングに向ける意識は強化されると思います。

ウェルビーイング重視の社会を世界的に実現するために、日本が貢献できることは多いと思います。ポジティブ心理学の代表的な学者たちは、日本で禅宗の僧との対話をした中でその着想を得たそうです。「侘(わ)び・寂(さ)び」といった概念はウェルビーイングに通じる深い意味が含まれますし、ウェルビーイングに似た意味を持つ「生きがい」や、自然との触れ合いによって心を癒す「森林浴」という概念は、日本では日常的に使われています。このような日本独特の概念を世界に広めるだけでも、ウェルビーイングに貢献できるはずです。

また、日本ではウェルビーイングを政策に取り入れる動きが始まっていると聞きました。これは大変喜ばしいニュースですし、私は「日本でならウェルビーイング政策をシステマティックに運用することができるのではないか」と期待を寄せています。世界中の国々に先んじて、戦略的にウェルビーイングを推進すれば、多くの国は刺激を受け、新しい価値観が広がっていくでしょう。

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