Well-being有識者インタビューVol.8

日本の企業統治改革をけん引した2014年発表の「伊藤レポート」から時を経て、2020年9月に経済産業省の「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」が「人材版伊藤レポート」を発表した。この研究会の座長であり、企業価値研究の第一人者である一橋大学CFO教育研究センター長の伊藤邦雄氏は「持続的企業価値の向上には、すべてのステークホルダーのウェルビーイングが、長い時間軸で循環することが重要」と語る。そこで今回は、伊藤氏にウェルビーイング経営推進のポイントと未来について話を聞いた。

写真:伊藤 邦雄氏

一橋大学CFO教育研究センター長 伊藤邦雄 氏

商学博士。経済産業省「持続的成長への競争力とインセンティブ~企業と投資家の望ましい関係構築~」など複数プロジェクトの座長、TCFD(気候変動財務情報開示)コンソーシアム会長、IIRCとSASBが統合してできたValue Reporting Foundation(VRF)のアンバサダーを務める。

ウェルビーイング経営で日本企業の閉塞感を打破する

私がウェルビーイング経営に着目したきっかけは、バブル崩壊です。「右肩上がりの経済成長を楽観的に見込むことができなくなった日本社会において、どのような経営システムを採用すればよいのだろうか」と考えていたとき、とある日本の大企業の経営者から、ヨーロッパへ視察に赴いた際の経験談を聞きました。

その経営者が、欧州企業の社員に対して「あなたは何のために働いているのか?」と聞いたところ、その社員は気負わない雰囲気で「自分が働いている企業のブランドを高めるためだ」と返したそうです。この人物はおそらく、企業ブランドを高めることができれば、同じ働き方をしていても自分の価値が上がり、自分自身の幸せにつながることが、直感的に分かっていたのでしょう。その話を聞き、同じような意識を持つ社員を多く雇用することが、日本企業が目指すべき姿ではないか…と考えました。

また、日本のメンバーシップ型雇用に対する疑問もありました。確かに日本企業の終身雇用には賞賛すべき点もありますが、社員を大切にしているとは思えない部分も多々あると思います。

具体的には、本人の意思に反した人事異動や単身赴任を強制されるのは当たり前で、出世のためには我慢すべきこととされています。また「上からの指示に疑問を持たず、遂行するのがよい社員である」という意識があるため、自ら学ぼうとせず、組織から浮かないように努める社員を増やしてしまっています。本来であれば、ある程度の緊張感を持って自分を高めることができる環境を提供することが、社員の幸福につながるはずです。

また、日本の経営者は、収益性が低い事業があってもその事業の「社員がかわいそうだから」という理由で継続しようとします。しかし、本当にかわいそうな状態とは、利益が出ないためにイノベーションのための研究・開発資金も回ってこず、苦しい状態が続いてしまうことです。もしその事業をコアにしている企業に譲渡すれば、テクノロジーを進歩させて利益を上げ、社員と世の中の幸福に貢献することにつながるかもしれません。

利益の循環と多様な働き方は組織の強靭さにもつながる

2014年に発表した「伊藤レポート」も、以上の考え方に基づき、日本企業の株価が上がらず、富が縮小していくことに歯止めをかけるのが狙いでした。平均株価水準が低い状態が続き、年金等国民の資産がしぼんでいく状態では、日本人の幸福は縮小しつづけてしまいます。この状況を打破するためには、個人の幸せの実現=ウェルビーイングを考える必要があるのです。そもそも、マネジメントの最終的な目標はステークホルダーのウェルビーイングを実現することといえます。

ウェルビーイングを経営に取り入れるためのキーワードとして挙げられるのが「利益を循環させること」です。

ここでいう「利益の循環」とは、投資家への分配を終えたら、次は社員に還元する…というように、中長期的な観点で利益をステークホルダー間に配分することを指します。いまの日本では経営者に余裕がなく、短期的な視点で富の分配を行っています。そのため、なかなか社員に利益が回ってこず、経済的に報われません。社会全体を幸福にするためには、順番に利益を得ること、そのために「待つ」ことを受け入れるのが大切です。

ウェルビーイングを経営に取り入れるためには、幸せのカタチは多様であるということを理解する必要があります。利益を上げるために、従来最も重視されてきたのが「効率」で、一斉に・一律にやることが正しいとされてきました。しかしこれからは、働き方にもダイバーシティーが必要です。

早く能力を身に付けて出世したい人も認めるし、プライベートに時間を割きつつ、ゆっくり成長したい人も認める。例えば、子育てというライフイベントに注力したい社員もいます。そんな人に「仕事に対してやる気がない」と評価してしまっては、その人のモチベーションが下がり、貴重な人材を失うことになります。

また、若い世代と高齢世代とでは、追い求める幸せがかなり異なります。いまの若い世代は生まれたときから情報社会に生きていて、調べれば独力でできることが増えています。彼らにとって幸福なのは、自分で選択して、選んだことをやり抜くことです。そうすることで、強い精神性も養われます。

一方、従来型の日本企業はというと、上司が課題を与えて、部下がこなすという業務が一般的です。命令されたことに対して、部下には選択の余地がありません。その結果、日本の上層部の多くは「選択する」ということに対して不慣れになってしまいました。

指示を待って完璧に遂行する人材は、日本という狭い市場の中では効率的に成果を上げることができますが、グローバル化が進みたくさんの選択肢があふれた社会の中では、自分で選び取ったことを成し遂げようとする人材のほうが、会社に利益をもたらします。つまり、広い視点でとらえれば、ウェルビーイング経営は、企業がサステナビリティーを獲得するためのプロセスでもあります。

同じことが、メンバーシップ型からジョブ型への転換についてもいえます。ジョブ型への転換で大切なことは、仕事を細かく切り分けることではなく、「社員が自分で仕事を選択し、自分の専門性を活かして仕事をやり抜けるようにする」という意味なのです。

相互理解には対話が不可欠安心して競い合える組織づくりを

多様性を認めるために必要なのが「対話」です。違いがある人たちが一緒にチームを組んでパワーを発揮するためには、お互いの考えを理解するための話し合いが必要になります。

現在、企業の存在意義に機軸を置いた「パーパス経営」が注目されていますが、存在意義に注目することが、社員と社員、経営者と社員の対話を促すということも、その大きな理由といえるでしょう。

先ほども触れましたが、従来の日本企業では、上から下への命令があるだけで、対話が欠落していました。対話を実効あるものにするためには、答えを短兵急に求めずに、話し合いの中で探すという「探索型」の態度が必要です。

ウェルビーイング経営を推進する企業が増えることのメリットは、数多くあります。まずは「心身の健康」と「つながりがあり相互信頼できる組織・社会の実現」。また「自己の能力を発揮できる」「リスキル・学び直しが柔軟にできる」というのも大切です。社会が短期間で大きく変化する時代においては、いままでの強みが使えなくなっても、別の能力を習得できることが安心につながります。また先に挙げた「従業員への適切な分配」や「多様性」も挙げられるでしょう。

結論として、これから日本が目指すべき社会システムは「共創対話型社会」だと考えます。人それぞれ違うウェルビーイングを実現するためには、トップダウン型でメインストリームから外れたものを排除するのではなく、「なぜ?」という問いを、社員も経営者ももっと発して、お互いに理解しあいながら力を合わせることが必要です。例えば経営者が社員との対話の中で富の分配についての考えを伝えれば、社員は分配を待つことができます。

さらに経営者は、経営計画を年に一度示すだけではなく、「なぜ我々がいまこれをするのか」について、繰り返し語るべきです。欧米は理解してもらうための説明を重視する文化ですが、日本人は同質性が高いがゆえに「なぜ」の説明をおろそかにしがちです。今後は、社員も遠慮なく質問し、経営者もそれに対して真摯に説明し、対話の中でよりよい在り方を共に探求するのです。

対話は企業経営の根幹であり、心理的安全性と共創の源でもあるのです。対話と心理的安全性と多様性は、ウェルビーイング経営を実現するための欠かせない要素なのです。

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